体罰否定派について PART2

前の記事の続きです。

体罰否定派のしょうもない意見その5
 体罰を容認する子どもは洗脳されている。

 これ、一番大笑いできる意見であると同時に、一番腹立たしい意見でもあります。
 まず笑えるという点。そもそも教育自体が洗脳と大差ないんですけどね。洗脳と教育の差など、ぶっちゃけて言えば立場の違いに過ぎないんです。ある社会が蓄積してきた価値観や知識を人に刷り込むのが教育ですが、そうした価値観や知識を否定している人から見れば、それは洗脳ということになります。洗脳の語源はもともとは共産主義国家が、共産主義でない人を共産主義者に変えさせたことからきているようですね。その国から見ればこれはれっきとした「教育」ですし、別の国から見ればそれは「洗脳」ということになります。
 体罰についていえば、かつては日本では体罰の有効性が信じられており、体罰の裏には愛があると教育されて来ました。ところが社会の中で体罰に対する価値観が変わってきて、もともとの価値観に基づいた教育が「洗脳」と呼ばれるようになったということです。もともとの価値観を継続している人間から見れば、今の体罰=悪という教育は「洗脳」ということになります。
 洗脳されているというのは、体罰否定派も実はまったく同じです。
 ひょっとしたらここまで読んで、厳密な「洗脳」の意味を持ち出して反論してくる人がいるかもしれません。それに予め対応してもいいのですが、長くなりますので割愛しておきます。しかしその点はきちんと論理を構築してありますので、突っ込むならまずよ~く考えてから突っ込んでください。よほどでない限り返り討ちにあうのがオチです。
 現在は体罰に対する価値観の変遷の過渡期にあると言えるでしょう。その中で目立つ事件が起こったため、新しい価値観のほうを持っていた多くの人たちが勢いづいているというところでしょう。
 ところでここでひとつ思い出すことがあります。かつて受験戦争時代、過度な勉強の押し付けは子どもによくないということで、ゆとり教育が始まりました。ところがそれが子どもの学力低下を招いたとして、今苛烈な批判にさらされています。
 今後10年、20年たって、言うことを聞かない子どもが増えたとか、日本のスポーツの質が悪くなったとかいう状況になって、やっぱり体罰はあった方がいいとかにならないといいんですけどね。
 時代と共に社会の価値観が変わっていくのはやむを得ないですが、必要以上にもとの価値観の人間を攻撃する必要はないし、もとの価値観の中から得るものもあるはずなんですが。
 先ほど社会が蓄積した価値観や知識を人に刷り込むことを教育と書きましたが、日本で体罰は効果がないなんて言っちゃむしろ文化的にだめでしょう。座禅のときの警策はどうなるんでしょうか? それから、人がやるんじゃないですが滝行とか。苦痛によって気持ちを引き締めること、日本的な文化ではむしろありなんじゃないかと思います。もちろん程度の問題はあるでしょう。そういう意味で今回の事件を特殊な例として問題ありとするのは分かりますが、それで体罰を全否定するのは、むしろ日本文化の否定に繋がるんじゃないでしょうか?
 それと、一番腹立たしいという点。人は生まれてからいろいろな経験を積み、人から教えを受け、それを自分で考えたうえで取り入れて、人格や価値観を形成していくのです。一部の子どもたちは、その結果として体罰容認という価値観を身につけました。それはそれで立派な一つの価値観です。
 「洗脳」という言葉の背景には、その価値観は自主的なものではないというニュアンスを含んでいます。これほど他人の価値観や人格を否定する言葉があるでしょうか? もちろん価値観や人格を形成するにあたっては周囲の影響というものは重要ですが、結局は体罰否定派の方だってなんらかの形で周囲の影響を受けた結果自分の価値観を形成してきたはずです。一方が洗脳だというのなら、もう一方も洗脳にすぎません。ただ、その方向性が違うだけです。
 日本は思想表現の自由を標榜していたはずです。自分の意見と違っていたからと言って、安易に洗脳呼ばわりする、そのこと自体がまともな日本の教育を受けた人間の行動とは思えません。自分と違う意見を持った人間に「洗脳されている」などと言う人間は最低な人間と評価すべきでしょう。
 いいタイミングだと思うので、ちょっと私の考えを詳しく述べておきます。子どもが何か悪いことをしたときに体罰をするのは、乱用するべきではないですが、必要なときがあると思っています。しかしスポーツの指導の中での体罰については、少なくとも私には効果がないですし、そういう指導を受けたいと思いません。しかしそれはあくまでも私の価値観。そうした指導の中で自分を伸ばせると考える人がいるのなら、それを尊重するべきですし、そうした指導を選択できるようにするほうがベターだと思います。
 少なくとも私は、自分の意見は意見として、別の意見も尊重するという態度をとっています。もちろん自分と違う意見の人に対して「洗脳されている」などという言葉は出てきません。
 私から見れば体罰否定派の多くは、人の意見に一切耳を貸さず自分がすべて正しいと思っているエゴイストにすぎません。

 長くなりましたので、またここで切ります。次回はさらに世間に喧嘩を売っていきます。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

ナイス

この記事へのコメント

noga
2013年01月27日 09:46
「なんで人を殴るのか」と問えば、「態度が悪いからだ」と答える。
相手が服従の態度を示さないところが、気に入らないのであろう。

日本語には、階称 (言葉づかい) というものがある。
上と見るか、下と見るかの判断を迫る日本語を使えば、モノの上下に関する判断は常について回る。

「下におれ、下におれ」の掛け声は、昔から続いた為政者の要求である。
理屈はない。ただ、指導者の要求のみがある。
「がんばって」の掛け声のようなものか。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/
2013年01月27日 23:44
コメントありがとうございます。
抽象的なご意見ですので、解釈を誤っていたらごめんなさい。
上下関係と言うものは、常に一方通行のものであるとは限りません。下の側の人間が上の人間を信頼することによって成立する上下関係もあります。体罰について言えば、昨今はその信頼関係が崩れてきているのでしょう。
ですが「指導者の要求のみがある」ということ、私は賛成いたしかねます。上への信頼に基づき、自主的に従うという関係もあります。

この記事へのトラックバック