「科学的とはどういう意味か」(森博嗣著、幻冬舎新書)を読んで

 と学会本自体がしっかりとトンデモ本と化してきた現在、まともな非科学批判を読んでみたいと思い、期待を込めてこの本を買いました。ところが読んでびっくり、立派なトンデモ本でした(笑)。
 森氏の本は「すべてがFになる」からそのシリーズを何本か読んで、そっちはそれなりに面白かったです。
 まず私のことを書いておくと、私は自称「文系、理系の両刀遣い」です。そういう私の目からみると、森氏は明らかに理系の方ですね。ご本人は文系的な要素ももつと書いてはいますが、私からみると理系の作家、藤原正彦とかと学会の山本弘、皆神龍太郎、大槻義彦とかと同じ思考をしていますね。有体に言えば、文系ならば当然分かるところが分かっていない。不思議なものです。
 まず氏の文系についての考え方が噴飯ものです。要するに文系人間というものは、基本的に理科や数学が苦手な人間で、それ以外が理系だとのこと。それじゃぁまるで、文系人間は落ちこぼれ集団ではありませんか。
 その後に続くのが、学校教育への偏見に満ちた考え方。ぜんぶ突っ込んでいくと長くなるので大幅に省略していくつか書きます。
 こんな文章がありました。「ほとんどの場合、小学校の先生は、教育学部出身であるから、つまり文系である。小学校程度の算数ならば教えられる、ということで今の制度があるのだろうけど、しかし、小学校の試験で点が取れることと、算数の基礎を理解していることとは微妙に(そして完全に)ずれているのだ。」か。完全に制度について無知ですね。小学校教育とはいっても、多くの学校は専攻が分かれており、理系の小学校の先生は大勢います。そして一般の理系の人間と違い、彼らは理系の「教育方法」や子ども自体についてを学ぶのです。すなわち、「理系の学問を理解していることと、それを子どもに理解させることとは微妙に(そして完全に)ずれているのだ。」ということです。
 で結果として、森氏の教育理論は思い切り子どもに対する教育の実態からずれているように思えます。
 
 それから、どうも森氏の言葉に対する理解は、普通とずれているように思います。森氏によると、「意見」は客観的で「感想」は主観的なのだそうです。「客観的な意見」「主観的な意見」という表現を見たことがないのでしょうか? あえていえば、「主観的な意見」を「感想」というんだと思います。

 あと、これは他の理系の人間にも共通して見受けられる特徴ですが、「意味」と「定義」の違いをまったく理解していないようです。むしろ理系の人間ほど、この区別をきっちりしなければいけないんだと思うんだけどな~。
 「意味」とは、日常使われている言葉の指し示す物事です。それを文章で説明したものが辞書です。辞書の範囲外の使い方をしても、それが必ずしも誤用というわけではないですし、誤用だったとしても、繰り返し使われることで定着することがあります。定着した結果、改めて辞書にその使い方が載る場合もあります。このように、「意味」というものは本来曖昧なものです。
 しかし、特定のグループや状況の中で、曖昧では困る場合があります。その時にその中での約束事として、意味を限定したものが「定義」なのです。
 森氏の文章の中には次のようなものがあります。
 「そもそも言葉のほとんどが、ぼんやりとした範囲で定義されているのだ。」
 これはむしろ「意味」の方ですね。定義がぼんやりとしていたは困ります。

 例えばの話ですが、辞書の恐竜の項に「古代に生息した爬虫類の総称」とでも書かれていたら、それは間違っているという理系の人間がいるかもしれません。「これだと首長竜や翼竜まで恐竜に入ってしまうが、それらは別のものだ」と。しかし、辞書はこの表記でも構わないのです。もちろん、古生物学上、首長竜や翼竜は恐竜とは別のものです。しかし、辞書が相手にしているのはあくまでも日常の使われ方です。古生物学上の分類まで網羅した辞書はより詳しい辞書であるということは出来るでしょうが、辞書はそこまでしなければならないわけではないのです。別の例で言えば、「のび太の恐竜」が首長竜であってもまったく問題ないわけです。
 恐竜の例の場合、むしろ定義の方が先にありきで、それが広がる中で意味と定義が乖離していったということではあるのでしょうが、定義が狭い範囲で使われている限定的な意味であること自体は変わりありません。

 もう少し定義の話を続けますが、森氏は「幽霊はいると思いますか?」という質問をよくされていて、それを変に感じるようです。
 森氏がどう思っているかどうかとうは、ものの存在とは無関係とのこと。でもそんなことは当たり前のことです。聞いている方だって当然分かっています。なぜ質問者がそういう質問をしているのか、森氏はまったく分からないようです。とても簡単なことだと思うのですが。
 そもそも聞いているのは森氏がどう「思っているか」であって、幽霊が「いるかどうか」ではありません。この場合質問者は適切な言葉の選択をしています。あくまでも森氏の主観的な意見を聞いているのです。当然の事ながら、森氏の意見を聞いても幽霊が存在するか否かは確定できません。しかし、質問者が考える上での参考にはなるのです。他者への判断材料として個人的な見解を述べることは、科学の中でも普通にあることだと思うのですが。
 ちなみに、森氏はこの問いに幽霊というものが何かを知らないので、その質問には答えられないと回答したとのこと。その理由はどうやら、「幽霊」がどういうものか定義されていないということらしいです。妙な意見ですね。普通は「言葉の意味」の範囲で「幽霊」を理解すればいいのです。「幽霊」という言葉の意味を知らないこと自体どうかと思いますが、分からなければ辞書で引けばいいのです。また、前述したとおり「定義」というのはローカルな約束事ですから、必要ならばその質問者との間で取り決めれば済むのです。質問者に相手の思う幽霊を聞き返してもいいし、森氏自身が提案してもいい。例えばこんな風に。
「死んだ人間が意識を残して、それが生きている人間に認識されるという意味での幽霊は存在しないけれども、生きている人間の錯覚や幻視などで死んだ人間の姿を見るような現象としてなら、幽霊は存在すると思う」
 やっぱり森氏は「定義」という言葉をよく分かっていないように思えます。

 突込みとは違いますが、ひとつ面白いネタがあったので、それに対する私の回答を披露しましょう。

 「鳥はどうして飛ぶことが出来るのか?」
 子供がこう尋ねてきたら、あなたは何と答えるだろうか?

 この本にこういう問いかけがありました。私はちょっと笑ってしまいました。私は普段から考えていたことなので。ただし「鳥」ではなく「飛行機」ですが・・・。
 私だったらこう答えます。「前に進むと、空気の精が持ち上げてくれるんだよ」
 もちろん空気の精は眉唾ですが、将来的には揚力に置き換え可能です。子どもの理解できる範囲に合わせた、なかなかうまい説明だと思っているのですが、いかがでしょうか?

 ここまでいろいろ森氏の文系能力についていろいろ言ってきましたが、正直理系能力についても時々疑問符がつきます。たとえばネッシーの話です。
「ネス湖の恐竜のように、写真があり、目撃者が大勢いた事例もあった。しかし、あれだって、ある人の悪戯だったことが既に判明している。」
 前にこのブログで書いた覚えがあるのですが、悪戯だったことが判明していたのは1枚の写真です。それが有名な写真だったのは確かですが、前々から疑われており、それが否定されたかといって他の全ての事例が否定されたわけではありません。科学の分野だって、たまたまひとつの実験で測定誤りが見つかったからといって、即座に他の実験まで否定されるわけではないと思います。それぞれの実験において独自の検証が必要なはずです。もちろん、私も「だからネッシーはいるんだ」などとは主張しませんが・・・。
 それから薬の話。森氏は薬品や健康食品をほとんど信用していないそうです。「市販されている薬は、それなりに(少しだけれど)効き目があることが実験的に証明されているのだろう。だけど、万人に効く保証はないし、また、効き目のほかに必ず副作用がある。もし副作用がないなら、もっと量産して、毎日飲むようになっているはずだ。」というのが森氏の見解。
 さらには、自分の体調は自分にしか分からないので、効果を鵜呑みにせずに自分の判断こそ科学的だと思ってよいなどと言っています。
 これ、むしろ怪しい民間療法に頼っている人が言いそうな理屈なんだが・・・。
 「実験的に証明されている」ものをなぜ信用しないのでしょうか? それのどこが「科学的」なんでしょうか? もちろん、薬は万人に効くわけではないでしょうし、副作用もあります。しかし、科学的に検証してメリットの方が多いとされたものが医薬品として販売されます。もちろん、時には副作用による死亡事故などもありますが、科学的に見れば、概ね信用していいレベルだと思うのですが。
 それから、自分の判断こそ科学的だなんて、森氏は「プラシーボ効果」というものを知らないのでしょうか? 自分の判断など当てにならないことが科学的に分かっているので、薬の検証過程でこのプラシーボ効果を回避するための実験を行っています。
 この本で森氏は異様なまでに知識を得ることを否定しているのですが、森氏が「プラシーボ効果」という言葉を知っていれば、薬についてこのような非科学的な見解を述べることもなかったと思うのです。

 突っ込みきれなかったとは思いますが、いい加減まとめに入りたいと思います。
 この本、突っ込むことが満載ですので、トンデモ本が好きな人にはお勧めします。
 また文系の人が読むと、理系の人間はこんなにしょうもないのかと、むしろ自信を持てるかもしれません。
 普通の理系の人はむしろ読まないほうがいいです。かなり理系であることが恥ずかしくなると思います。もしならなかったら・・・・・・。その人は森氏と同レベルです。むしろ文系的な学問をもっと勉強すべきでしょう。

 それにしても、理系の作家って、実は大した事がないんじゃないかと思えてきます。それでも本を出せるのは、要するに作家というものは、自分のレベルで文章を書いているだけで、むしろ賢明な読者の方が、そのレベルに合わせてくれているということではないでしょうか? 実は読者の方がよっぽど賢い?(笑)  

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